墨荘堂ブログ

西洋医学全般のセカンドオピニオンとして立脚する「和方鍼灸」を追求する関墨荘堂鍼灸治療院のブログです。
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和法鍼灸 関 墨荘堂
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2015 第35回鍼灸祭 開催のお知らせ

 今年、2015年の第35回鍼灸祭の詳細が事務局より発表されました。

 今年も、
5月第3日曜日の17日に湯島聖堂にて行われます。

 

 「鍼灸祭」は、東洋の学術文化の普及活動をする財団法人斯文会が主催し、秋の「神農祭」と並んで湯島聖堂の行事として実施されています。「鍼灸祭」は鍼灸関係各方面の協賛金で運営しておりますが、個人の診療所・治療院でも協賛出来ます。詳しくは鍼灸祭事務局(ポスター下部にメールあり)にお問い合わせ下さい。

 また、今年も式に先立ち12;00〜13:00まで、聖堂の奥にある神農廟を特別に拝観する事が出来ると思います。ぜひご参拝下さい。

当日は

13:00〜神田神社神官による祭礼

14;00頃〜特別講演2題(参加費500円)

16:30頃〜懇親会(懇親会費3500円 当日先着順受付)

という予定で、

今年の特別講演は、第1回目にもご登壇いただきました北里大学東医研 医史学研究部部長の小曽戸洋先生にお願いしております。内容は、「鍼灸序説ー私の天地人」で、最近大修館書店のあじあブックスから、『針灸の歴史』を上梓されましたのでそれに即した内容かと思います。個人的にはこの手の本の日本針灸の紹介で、三輪東朔が写真入りで出たのは初めてじゃないかと、マニアックに喜んでおります。
 

 後半の実技講義は東京九鍼研究会の間先生がいよいよ担当されます。内容は「火鍼の解説と実際」という事でお楽しみに!

また例年鍼灸祭の前の月例参拝日の15日(今年は金曜日です)に、浅草寺の五重塔にある鍼灸関係物故者の回向を行っております。参加されたい方は事前にTwitterで日時を確認して下さい。

 恒例の懇親会の鍼灸祭モルト同好会(非公認)の持ち込みボトルの予習(笑)は、この次にブログでup致します。

鍼灸祭の講演を聞くのにおよそ必要がない雑学
いよいよ第34回鍼灸祭が明後日となりました。

今年の講演の茨城大学教授 真柳誠先生の「素問の版本について」と六然社主宰 寄金丈嗣老師の「毫鍼の術として、巨鍼、散鍼、そして鍉鍼」がたった500円で聞けるとは…こんな機会はまずありません!

真柳先生の「素問の版本について」は内経学会の機関誌に4回ほど連載されていた『素問』版本研究のお話で、書誌学者でも誰も到達出来なかった『素問』の版本系統の全容です。

従来、森立之らの『経籍訪古志』と小島尚真の『医籍著録』の結論は、明初の仿宋本を最善とし、1550年の顧従徳本は明初仿宋本の酷似した重彫としてきたのですが、彼らがいう最善の明初の仿宋本だけは実物が見いだされていないこと。また、顧従徳識語にある、父の顧定芳から授けられた宋版『素問』は南宋の何本であったのか?などの疑問点がクリアになってます。
ここまで書けばお分かりの通り、何人も到達出来なかった『素問』研究の最先端の内容です。

寄金老師の「毫鍼の術として、巨鍼、散鍼、そして鍉鍼」はとくに解説できる知識もありませんが、従来から主張されていることのエッセンスでしょう。当然実技もありますが、寄金老師の実技は刺している手先だけ見ても再現できません。老婆心ながら言わせてもらえば体全体を見ましょう!新たな発見があると思います。

ところで講演者の著書の販売もあると思いますが、寄金老師の新書『ツボに訊け!―鍼灸の底力 』(ちくま新書)はもう再販しないそうなので、どうするんでしょう?

amazonでは中古品が1649円〜34,950円とすごいことになってます。そう言っているうちにも追加出品が(笑)

インタビューの出ている武術療法もおすすめです。

最後になりましたが例年どおり、神農廟も12時〜13時まで開帳されるようです。時間が短いと文句は言わないように、年2回しか開帳されないんですから。では当日お会いしましょう。
 
第33回鍼灸祭 2013
2013年の第33回鍼灸祭は、5月第3日曜日の19日に湯島聖堂にて行われます。

「鍼灸祭」は、東洋の学術文化の普及活動をする財団法人斯文会が主催し、秋の「神農祭」と並んで湯島聖堂の行事として実施されています。「鍼灸祭」は鍼灸関係各方面の協賛金で運営しておりますが、個人の診療所・治療院でも協賛出来ます。詳しくは鍼灸祭事務局(ポスター下部にメールあり)にお問い合わせ下さい。


当日は
13:00〜神田神社神官による祭礼
14;00頃〜特別講演2題(参加費500円)
16:30頃〜懇親会(懇親会費3000円 当日先着順受付)
という予定で、

今年の特別講演は日本薬科大学教授、船山信次先生の「毒と薬と人類〜人類と薬や毒との出会い」と実技供覧は私が「打鍼」を担当致します。

また例年鍼灸祭の前の月例参拝日の15日に、浅草寺の五重塔にある鍼灸関係物故者の回向を行っております。参加されたい方は事前にTwitterで日時を確認して下さい。

今年も式に先立ち12;00〜13:00まで、聖堂の奥にある神農廟を特別に拝観する事が出来ると思います。ぜひご参拝下さい。

鍼灸柔整新聞5/25号に鍼灸祭の様子を載せて頂きましたので、追加します。
経絡治療のルーツ
経絡治療のモデルとなったのは、西村流の流れを組む八木下勝之助の臨床とされているが、八木下が座右の書としていた『鍼灸重宝記』や西村流の写本には難経六十九難、七十五難の解釈を「脈経」の六部定位に結びつけて証を決定する方法は書かれていない。ではいったいこの方法はどこから来たのか不思議ではないですか?

 経絡治療をやっている方で「岡部、本間先生が『難経』から再構成したのでは」と思った方には、ぜひ最後までお付き合い頂きたい。

 昭和23年に半田屋から出版された柳谷素霊の「八木下翁実験実証 脈診による鍼灸治療法」は興味深い。これは後に『柳谷素霊選集』に再録されている。
 
 柳谷素霊の文章の中に治療穴配合の方法として要穴表が出てくる。これがいわゆる経絡治療で使われる要穴表で、いかにも八木下翁がこれを運用していたように書かれてはいるが、「八木下翁実験実証 脈診による鍼灸治療法」に引用される城一格の見学記録(昭和11年頃)による八木下翁の治療風景と比べてみていただきたい。

 城の見学記録は次のようである。「まず患者の手の神門、太淵、列缺、支溝、尺沢かと思われる穴所に、一カ所を上または下に入念に按摩して鍼を下す。両手がすむと足の崑崙、陽輔、三陰交、三里手の場合と同じ形式で刺鍼する。大体はこの範囲で施術を終える。」

 八木下翁の配穴は『難経』69難でも他経補瀉法ではなく、自経補瀉法(同経の五行穴を補瀉する方法)のような感じがするがいかがであろうか。我々凡人は治療に用いる場合、自経補瀉法と他経補瀉法の判別をつけなければならいないが、どのような診断でつければ良いか経絡治療では示されているのだろうか?

 日本では『難経』69難や75難が重要視されるが、中国医家の関心は、64難の五輸穴を五行に配当する五門十変論にあるようだ。これは後の『子午流注鍼経』の基礎になっているからである。やはり「子母迎随法」はかなり弾力的に運用しなければ効果は上がらないのではないだろうか?

 また、経絡治療の代名詞のような他経補瀉法のルーツは何か?『日本鍼灸医学』では岡本一抱としている。たしかに『難経本義諺解』では「愚案(私が思うに)」となっているが、一抱は明の『内経』考証の内容を日本に広めた饗庭東庵門下の味岡三伯に師事していたので、饗庭や味岡の学説、さらには『難経集注』に載らない明代の『難経』解説書の検討も必要かもしれない。

 そう思って手元にあった熊宗立の『勿聴子俗解八十一難経』(和刻本は寛永10年刊)を確認した所、熊宗立はすでに肝虚の場合は腎を補うと解説していた。きっともう少し遡れるのではないだろうか?また、中国だけでなく経絡治療とよく似た朝鮮の舎巖道人鍼法との比較も重要だろう。

 このように経絡治療のルーツはつっこみ所が満載なのである。

この内容は少し前にツイートしていたものをまとめたものですが、ツイッターのサーバーが不安なので、リスク分散で加筆修正してみました。(8/28さらに追記)
鍼灸祭縁起
昨日六然社社主ご一行様と浅草寺の五重塔に鍼灸関係物故者の回向に参加しました。

例年鍼灸祭の前に行っていますが、五重塔の月例参拝日が15日のため、曜日に関係なく15日となります。なぜ浅草寺の五重塔かといえば「はり灸まつり」の発起人であった四世神戸源蔵氏が施主となった、「鍼灸医道顕者之霊位」という慰霊碑が安置されているからです。
鍼灸医道顕者之霊位
そもそも「はり灸まつり」は浅草伝法院で行われていましたが、これは師匠の工藤先生が浅草寺病院の泌尿器科に勤務していたご縁のようです。

当時の様子は昭和46年に神戸源蔵氏が経絡治療誌に投稿した「はり灸まつり誕生の記」に詳しく書かれています。

現在では神田神社から神官をお迎えして、神道形式で祭典を行っていますが、当時は石原明先生の創案による方法で、江戸医学館が行っていた中国式の儀式を参考にした純中国式だったようです。ただし、黄帝他5つの神位の軸を正面に祀る事や、献香として艾を使う事などは同じです。

「はり灸まつり」では祭文も石原明先生が作り、祭司も自らがされていましたが、鍼灸祭では祝詞奏上の後に斯文会の石川先生が読み上げる祭文は、斯文会で作っていただいています。これがなかなかの文章なので、当日じっくりと聞いてみて下さい。

また斯文会のご厚意により、例年どおり12:00〜13:00まで神農廟の拝観もできますので、ぜひご参拝ください。

今年は六然社の老師が事務局を担当される最後の回になります。長い間ご尽力頂き誠にありがとうございました。
今年はやります!第32回鍼灸祭
 昨年は震災の為に湯島聖堂も被災して中止となりましたが、今年は5月第3日曜日の20日に湯島聖堂にて、第32回鍼灸祭が行われます。「鍼灸祭」は、東洋の学術文化の普及活動をする財団法人斯文会が主催し、秋の「神農祭」と並んで湯島聖堂の行事として実施されています。

もともとは昭和40年から20年間にわたって浅草の伝法院で行われていた「はり灸まつり」を、世話人代表だった故島田隆司先生らが平成12年より復活させたものです。 鍼灸祭は、流派や学派の相違を超えて鍼灸の各団体が協力し、鍼灸の発揚と、鍼灸を創生した先達への祭礼、鍼灸関係物故者の慰霊、鍼と艾への感謝をとり行い、同時に各学派・流派の学術講演などを行って、広く親睦を深めつつ鍼灸の啓蒙普及に努めることを目的とした会です。

当日は
13:00〜神田神社神官による祭礼
14;00頃〜特別講演2題(参加費500円
16:30頃〜懇親会(懇親会費3000円 当日先着順受付)
という予定で、

今年の特別講演のうち漢学の方からは斯文会理事長で、NHKの漢詩シリーズでも知られる石川忠久先生の講演「体や医に関わる漢字・漢文について」があります。→石川先生の講演タイトルは変更になったようです。(4/29現在)

鍼灸の方からは日本刺絡学会副会長の大貫進先生による実技です。演題は「工藤流刺絡鍼法による鍼灸臨床」で、『黄帝内経』の中心的な治療法だった流派を超えて使える刺絡鍼法の実技供覧を予定しています。

今年も式に先立ち12;00〜13:00まで、聖堂の奥にある神農廟を特別に拝観する事が出来ます。ぜひご参拝下さい。

追加情報
日本刺絡学会の基礎講習会も募集が始まりましたので、刺絡学会HPでご確認下さい。今年よりwebからでも申し込めるようになっております。

沢庵禅師と鍼灸
沢庵宗彭(たくあん そうほう)(1573〜1645)は、大徳寺住持も勤めた臨済宗の名僧ですが、吉川英治作の小説『宮本武蔵』でご存知の方も多いでしょう。
画像と本文はほとんど関係ありません

しかしよく言われているように、史実において武蔵と沢庵和尚の間に接触のあった記録は無いようです。

創作してまで吉川英治が沢庵を登場させたのも、沢庵が柳生宗矩に与えた書簡集『不動智神妙録』で、「剣禅一味」を説いたという事実があるからではないでしょうか。

『不動智神妙録』は禅で武道の極意を説いた書物ですが、原本は現存せず、沢庵から柳生宗矩に書き贈ったという事実を証する史料はないそうです。

 おそらく『不動智神妙録』の原本が見つかればニュースになると思いますが、今回は『不動智神妙録』ではなく、鍼灸に関する沢庵の直筆本のおはなしです。
 
 沢庵が近世日本の医学に与えた影響は、唯一の伝本である四天王寺国際仏教大学の所蔵本を基に復刻された『沢庵和尚全集』にある「針記」で見る事が出来ます。

「針記」の内容は『鍼灸抜粋』の「補瀉迎随之事」に全文が収録されているので、鍼灸師ならばどこかで見た事があるのではないでしょうか?もっと言ってしまうと『鍼灸重宝記』にもこの「補瀉迎随之事」は再録されていて、「予」と「悦」の取り違えから誤解を生んでいるあの文章です。(くわしい経緯は『意中玄奥の世界』の長野先生の論文を読もう!)

 今回突然市場に出た『刺針要致』は、沢庵が47歳の頃、瘧疾に罹り他の方法では治らなかったものが、鍼立・悦公の施術(打鍼)で快方に向かう様子を悦公の理論と供に本人が記した「針記」の直筆本です。(くどいようですが本人が書いたものです!)

実はこのネタ、今週末に札幌で行われる日本東洋医学会で長野先生が発表される一般発表の内容です。札幌近辺の方は当日参加すれば、ライブで聞けます(笑)。

 以前にも書きましたが、鍼灸師は鍼灸以外の学会には目もくれませんし、東洋医学会に取材に来る鍼灸関係の編集者はごく一部を除いて、こういう大事な事を記事にしないので、あえてお知らせした次第です。
和菓子カステラと和方鍼灸
先日某勉強会で、九州のお土産としてカステラを戴いたのですが、先日まで九州に行ってたのにカステラは買って来なかったので、ラッキーと思って食べていると、ふと一緒に入っていた福砂屋さんのパンフレットが目に入りました。

ポルトガル人が「カスティーリャ王国から伝わったお菓子だ」といったのを名前と聞き間違えたという話は有名ですが、その話に続いて、日本の職人が和菓子に成熟させていく過程も書かれていました。

その中に「西洋からの刺激を目の当たりにしてそれを享受し、永い時の積み重ねのうちに日本人に合うように変容させ、繊細微妙に仕立てていく創意と工夫。」という一文がありました。

そうなんです、カステラも日本文化の特徴を現す典型のひとつなのだと気付かされました。

中国から朝鮮半島を経由して伝来した原初の九鍼も、当然日本人に合うように変容していく訳ですが、マイルド化がキーワードのようです。

ザン鍼は出血しない接触鍼となり、圓鍼では刮さ法のように跡がつく程擦らず、圓利鍼の刺入を和らげるために打鍼が誕生する等等。テイ鍼も昭和初期に発掘され、臨床で一番使っているのは日本でしょう。

現在行われている九鍼の手技は現代風にアレンジされた訳ではなく、日本式に変容した結果です。日本人は進んだ文化を模倣し、細部にこだわった末「本物よりすごい偽物」※1を作り出すのに秀でた民族です。

そして日本化されたものは日本では認められず、海外からの波によって初めてその良さに気付くのです。和方鍼灸も国内の意見が統一されるより早く海外から「これを教えてくれ」ということになるんでしょうね。

参考文献:カステラ本家福砂屋パンフレット
※1:タモリがテレビで言っているのを聞いた覚えがあります。
小児鍼の起源
最新号の『日本医史学雑誌』(56巻3号)に「小児鍼の起源について」(長野仁、高岡裕著)が掲載されました。

日本には中国、情報経由地である朝鮮にもない独特の打鍼、管鍼、小児鍼という鍼法がありますが、これはその中でも最後まで詳細が不明だった、小児鍼の誕生と歴史的背景について論考したものです。

長野先生には「小児鍼の形成史」という論文がありましたが、前論文をさらに敷衍した内容となっています。

『日本医史学雑誌』は会員になるか図書館で見るしかないと思いますのでハードルの高い人もいるかもしれませんが、学校の教員レベルの人は必ず眼を通してもらいたいですね。

この論文のキモは「小児鍼の鍼具はオ血を刺絡するための鋒鍼が起源であり、1912年に施行された法律の影響で、現在行われているような小児按摩の方法を取り入れた摩擦による鍼法に変法した」ということでしょう。

思えば16年ほど前に大阪の谷岡賢徳先生に三稜鍼を見せて頂いたとき、「弱三、中三、強三」という表現が妙だなと思っていたのですが、これが小児鍼の最も古い形を保存していた訳なんですね。

打鍼、管鍼、小児鍼に関しては、日々情報が更新されているような状況ですから、しばらくは眼をそらせられないと思います。

この論文にも言及がありますが、薛父子と龔(キョウ)父子のサ病に関する刺絡の論考を別稿にて刺絡学会誌に投稿していただけるようなので、こちらもご期待下さい。
中国でも忘れられた良書
日本は言うに及ばず、中国でも注目されないけれど、中身はすごい。そんな本に妙に惹かれます。

以前に『鍼灸病証学』のところで『医学綱目』について触れましたが、余りにリアクションがないので、しつこく書きます(笑)

『医学綱目』は来歴も数奇なもので、1370年頃には成立していたにもかかわらず、「こんな良書を埋没させていいのか」と考えた曹灼によって200年後の1565年になってようやく公刊されました。

この嘉靖44年刊本や明刊本は、中国・台湾・日本でも比較的多数の本が残っているのですが、清代には刊行されず1937年の活字本以降はしばらく中国でも刊行されなかったため、入手が困難な時期がありました。

1987年の人民衛生出版社の点校本、1996年の中国中医薬出版社本が出て、なんとか読めるようになりましたが、いまではこれもあまり見かけないかもしれません。

日本とは違って中国では、鍼灸の専門書でなくとも読んだ方が良いものは『各科鍼灸学説』で取り上げてあるのですが、1988年版では『医学綱目』は取り上げられていません。

一部の頭の固い中医学信奉者には、中医学でも過去の実績を全て取り上げている訳ではないということを知ってもらいたいですねぇ

最初にこの本を読んだとき面白いと思ったのは、この本の構成の仕方でした。小曽戸先生も浦山先生も詳しくはふれていないのであえて書きますが、従来からの編集方針では病門別に分類していくのを、各蔵府の疾病に対する証治で分類しているのです。

具体的に肝胆部の内容を見てみると、

諸風、中風、眩、痓、破傷風、癘風、諸痺、涼悸征忡、怒、善太息、目疾、脇痛、諸疝、閉癃遺溺、前陰諸疾、筋、頭風痛、多臥 不得臥、咽喉が分類されています。

まあ中風、涼悸征忡、怒、目疾などはわかりますが、閉癃遺溺(排尿困難)のようなものは肝胆部なんですね。

この分類方法は臨床で蔵府経絡弁証として鍼師が使うには、実に使い勝手が良いんですよ。どうですか?読んでみたくなりました?

ただ、『鍼灸病証学』として使うには、少し配穴例が少ないのが難点だと思い、前回のブログで紹介させて頂いた訳です。

楼英先生は目立ちたがらない職人気質の大人だったと想像するのですが、20年経ってもこの想像は変わることはありません。

参考文献 小曽戸洋「漢方古典文献概説42 明代の医薬書その8