諸行無常
2012.08.21 Tuesday
2011.04.20 Wednesday
日独交流150周年
今年はプロイセンの東方アジア遠征団が、1860年秋に江戸に到着し、翌61年に両国の外交関係が樹立して150年だそうです。そこで記念事業の一環として「ドイツ人の目を通して見た150年前の日本の風景展」というのが、ドイツ大使館の外壁に展示されています。
「オイレンブルク日本遠征記」の拡大プリントされた図録と解説そして現代の写真が、ドイツ大使館の外壁に貼られているというもので、ドイツ人画家アウグスト・ベルクが描いた当時の江戸の風景は写真を見ているようで、とても興味深いです。
「オイレンブルク日本遠征記」は万延元年(1860)日本に来航して日普修好通商条約を締結したフリードリヒ・ツー・オイレンブルク伯爵率いるプロイセン使節団一行のプロシア政府の公的報告書として編纂刊行されたもので、 日本でも刊行されてるのでご存知の方もいるでしょう。
オイレンブク 『オイレンブルク日本遠征記』上・下、中井晶夫訳、雄松堂書店 、1969 (新異国叢書 、 12・13)
医学の世界でも、オランダ東インド会社の仕事で来日し、日本を研究した、エンゲルベルト・ケンペル(1651年-1716年)や、フィリップ・フォン・シーボルト(1796年-1866年)といった人たちが有名で、彼らが残した鍼道具の図がなければ、江戸時代の鍼灸の実体もわかりずらいものとなったと思います。外国人の記録によって判明する事が多いのも歴史研究のおもしろいところですね。
なおこの展示は5月末ぐらいまでやっている様なので、お早めに。ドイツ大使館は東京メトロ広尾駅から徒歩3分ぐらいのところにあります。
2010.11.13 Saturday
暗闇坂の楷樹その2
暗闇坂の楷の木が紅葉しました。
風の強い日だったので、大分落ちてしまい閑谷学校ほど見事ではないのですが、ハゼ科の紅葉はきれいです。
楷の木は平成9年に日本国憲法施行50周年記念樹として、国会議事堂前庭に2本植樹されたりしているようです。
暗闇坂のこの土地は、特殊法人「国際協力銀行」の麻布分室が持っていて、「国際協力銀行」といえば以前FRIDAYにも書かれていましたが、最近では真っ先に仕分けで話題に上りそうなされそうな組織です。
なにせこの銀行は、貿易会社やエネルギー開発を支える輸出入金融にくわえ、開発途上国への円借款や無償資金協力など約8000億円ものODAをも牛耳っており、貸出残高約20兆円という巨大金融機関なのです。
この銀行は、99年に特殊法人改革の一環として日本輸出入銀行と海外経済協力基金が合併して出来たのですが、「麻布分室」は旧基金が保有していたものだそうです。そうなると漢学関係者ではなく、外務省経由で持ち込まれたという線も捨てきれませんね。
ただし、この木は湯島聖堂のものと同様に雌ではないようです。閑谷学校、麗澤大学には雌の木があるようです。
2010.08.24 Tuesday
暗闇坂の楷樹
儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、世を去った後、山東省曲阜(きょくふ)の泗水のほとりに埋葬されました。門人たちは3年間の喪に服した後、中国全土から集めた木々を植えました。この森は今も墓所のまわりに残り、孔林(70万坪/200ha)と呼ばれています。
孔子十哲と称された弟子の一人の子貢(しこう)は、さらに3年小さな庵にとどまり、楷の木を植えてその地を離れました。この楷の木が世代を超えても受け継がれ、「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に残っています。
「楷の木」はウルシ科の高木で、日本名はトネリバハゼノキといいます。孔子にちなんで『学問の木』ともいわれ、また、葉が左右揃って出るので、(写真)「楷書」の語源とされています。
閑谷学校(岡山県)の聖廟の両脇に二本の木が植えてあり、秋の紅葉がすばらしいことは有名ですよね。
この楷の木、江戸時代までは日本には存在しておらず、大正4年(1915)、当時の農商務省林業試験場長だった白澤保美博士が、中国曲阜の孔子廟の楷の実を持ち帰り、大正14年にその苗を全国の孔子ゆかりの地である、湯島聖堂、足利学校、閑谷学校、多久聖廟などに寄贈したのが最初なんだそうです。
楷の木は雌雄異株で、実をつけるまでに20年もかかり、それまでは雌雄の区別がまったくつかず、雌株と雄株をあまり離して植えてしまうと交配できず、しかも発芽率は低い(50%程度)という大変珍しい木です。
実はこの楷の木が麻布の暗闇坂にあるのですが、この家の方は漢学関係の方なのでしょうか?とっても気になります。
なんとか種をひろって発芽させたいと画策しているのですが、ハードル高そうです。